1955〜1963

 

 


物心ついたころから家には音楽が溢れていました。
父はバイオリン(クラシックじゃなくて流行歌。若い頃には無声映画の弁士の横でバイオリンを弾いていたそうです)やハーモニカ、
一番上の姉、二番目の姉は三味線、三番目の姉はオルガンを弾いていたし、母はいつも鼻歌をうたいながら家事をするような人でした。
いつもラジオから音楽が聞こえていたし、レコードプレーヤーがわが家に来たのは小学校1年くらいだったと記憶しています。
高価なもの好きの父が当時珍しかったステレオを買ったのも小学校4年くらいだったと思います。

守屋ひろし、橋幸夫、西郷輝彦、舟木和夫・・・ラジオやテレビでたくさん聴いた人たちです。
洋楽も好きだった一番上の姉の買ってきた
エルビスプレスリー、クリフリチャード、コニーフランシスなどのレコードを毎日のように聴かされたのもこの頃です 

       

1963 抱きしめたい/こいつ ザ・ビートルズ



 


プリーズ・プリーズ・ミー/アスク・ミー・ホワイと、このレコード、
どっちを先に買ってきたかは覚えていないのですが、抱きしめたい/こいつ はホントに毎日繰り返し20回くらい聞いていました。
英語も知らない小学生が「アイヲナホーヨーハ〜〜〜♪」って歌っていたんですね〜(笑)
B面のディス・ボーイのコーラスが子供ながらに「スゴ過ぎる!カッコイイ!」って思って何回も聴いて
ジョン、ポール、ジョージがどのパートを唄っているのか・・・
なんて思いながら・・・でも、高くてよく聞こえるポールのパートしか唄えなかったなぁ・・・(^^;

 

1965 君といつまでも/夜空の星 加山雄三





   


当時、家の近くに映画館があって、誰に連れて行ってもらったかは忘れたけど(姉かな?)
「エレキの若大将」「海の若大将」という二本立ての映画を観たのですよ。
もう、加山雄三のエレキギターを弾いている映像に一発でシビレてしまって(^^)
当時はベンチャーズをはじめ、空前のエレキブームでした。
『もう、買うしかない!』と当時小学4年生の子供が思っていたんだから、ずいぶんませガキでしたね(笑)
それから一年後、新聞配達をしたお金で念願のエレキを手に入れることになります。
モズライト(ベンチャーズが弾いていた)コピーモデルで八丁堀のカワイ楽器に父といって
15000円で買ったのですよ!スゴイ嬉しかったなぁ・・・
もちろん、初めて手にするギターでコードが弾けるわけでもなく、単音で音を拾いながら、はじめてメロディを弾けたのが
スパイダースの「いつまでも どこまでも」でした。

 

1966 デイドリーム・ビリーバー ザ・モンキーズ

 


 


当時、毎週金曜日の夜7時からテレビで「ザ・モンキーズ・ショー」をやっていたのを覚えている方も多いでしょう?
私も毎週欠かさず観ていました。
近所のお兄さんが「所詮、ビートルズのサルマネやないか」と言ったのを覚えています。
でも私はその時は確かにビートルズよりもモンキーズのほうが好きだったと思います。
ドラマ仕立で最後の方で演奏シーンが映るんだけど(口パクだったけど)それを目を皿のようにして見ていました。
やっぱりカッコよかった(^^)

 

1967 銀河のロマンス/花の首飾り ザ・タイガース


 


GSが大流行したこの頃、色々なバンドがテレビに出ていました。
ブルー・コメッツ(たしかレコード大賞を獲ったはず)スパイダース、テンプターズ、オックス、ゴールデン・カップス・・・
中でもやっぱり人気No.1のタイガースが一番好きだったなぁ・・・
タイガースが出したほとんどのEP盤を小遣いをすべてつぎ込んで買って毎日聴いていました。
「シー・シー・シー」という曲があるんだけど、今から考えると「ツイスト&シャウト」に似ているな・・・って
こうして考えてみると、当時のGSバンドはビートルズの影響を受けているバンドがいっぱいいたんだなっていうのがわかります。
バンドを組んでみたいって思い出したのもこの頃からだったと思います。

1968 [ミニッツ]

 

 

 


私が初めて参加したバンドです。
なんと、パートはドラムでした(^^;
中学校に上がった私はすぐにサッカー部に入部して、厳しい練習に耐えながらもサッカーにのめり込んでいきます。
そして夏休みあたりだったと思うけど、幼馴染のパチンコ屋の息子のEK氏が「バンドやろうや」と誘ってきました。
八百屋の息子とお寺の息子と揃っていました。しかし、パートがドラムしか空いていなくて・・・
ギターを弾きたい気持ちとドラムも叩いてみたいという気持ち半々だったけど、結局ドラムを叩いてみたいという好奇心のほうが優って
・・・約1年くらい練習しました。
レパートリーはタイガースの花の首飾り、青い鳥、ローリング・ストーンズのテル・ミー、ジャンピング・ジャック・フラッシュ、
ホンキー・トンク・ウイメン
そうそう、何故かビートルズのアンド・アイ・ラブ・ハーもやってました!
一度も人前でライブすることもなく、自然消滅してしまったなぁ・・・

 

1967 ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス  ザ・ビートルズ

 



 


当時、仲良くしていて一緒にギター弾いたりしていたSO氏(のちにプロミュージシャンになり、長渕剛、高橋真梨子のバックミュージシャン
として活躍)
が買ったホワイトアルバムを借りてオープンリールのテープレコーダー(当時はまだカセットテープも持っていなかった)にダビングして
聴いていました。

2枚組みのこのアルバムはいろんな曲がごちゃ混ぜで当時は正直言って理解できなかったし、好きなアルバムではなっかんだけど、
この曲だけはものすごいインパクトがありました。
ジョージの曲もすごかったけど、やはりエリッククラプトンのギターはそれまでの自分の価値観がガラリと変わるくらいの衝撃でした!
ロックギターのテクニックもなにも知らない私でしたので、『どうしたらこんな音が出るんだろう?』とギターを抱えて
毎日考えながら、悩んでいたんですよ。
今でも、この曲を演奏する時にはずいぶんと気合が入ります。

 

1970 マークU 吉田拓郎


 

 


中学3年になった頃、ロックギターに憧れを抱きつつ一方ではフォークギターを弾くという感じだったんですけど、
一学年下のJ.I氏(後に母校の教師になる)、A.K嬢と共にフォークバンドを結成し、放課後の教室で練習するようになります。
レパートリーは吉田拓郎のデビュー当時の曲が数曲、PPMなんかをやった記憶があります。

このバンドで人前でやったのは一回だけで、文化祭の時に野外プールで数バンドでコンサートをやった時だけです。
その時のセットリストは忘れてしまったけど、一曲だけは鮮明に覚えています。それはビートルズのレット・イット・ビー!
何故覚えているかというと、なんとコンサート最後に演奏するこの曲の直前に突然大雨が振り出して、コンサート自体が中止になって
出来なくて悔しい思いをしたからなんですねぇ(^^;
担任の教師が英語の先生ということもあり「発音を直してあげる」とか言われて、事前に先生の前で無理やり唄わされたんですよ(^^;


1972 ハートブレーカー  グランド・ファンク・レイルロード


 

 


高校に入ると聴く音楽はハードロック一辺倒になっていきます。
ロックコンサートに足繁く通うようになったのもこの頃です。
前出のS.O氏と一緒にいった、今では伝説になっている大雨の中での大阪球場のグランド・ファンク、広島体育館であった
レッド・ツエッペリン、広島公会堂であったディープ・パープル、広島郵便貯金ホールであったサンタナ、
他にもイエス、ジェスロ、タルなんかも行ったなぁ・・・
そうそう!カーペンターズにも行きました(^^)

この曲は本格的にロックギターに傾倒していった初めての曲として忘れられない曲となっています。

 

1974 [ハード・イマジネイション・ブルース・バンド]





 


このバンドは、高校のクラスメートのK.Y氏(今でも年賀状のやりとりをする間柄)、S.O氏一学年下のJ.I嬢とが中心となって出来た
バンドで初めは放課後の教室や音楽室でギターを弾いて遊んでいた仲間だったんだけど、
「文化祭に出よう!」ということで本格的にバンドとして練習するようになりました。
高校生の頃はサッカーと音楽で随分悩んだ時期でしたね。
全国大会に出場するくらいの名門(今はダメですよ^^;)のサッカークラブに在籍していて練習も厳しかったし、サッカー以外の
グランド整備やもろもろの恋愛をしたり(笑)で音楽を聴いたりギターを弾いたりする時間が大幅に少なくなり、
いつも『もっと時間が欲しいな』って思っていました。
音楽をむさぼるように聴いていたのもこの時期です。

そしてこのバンドも卒業とともに解散をしてしまうので、最後に大きなコンサートをしようということで、今はなくなってしまったけど
袋町の見真講堂を貸し切っての99円コンサートをやることになります。
何故99円にこだわったかというと99円なら税務署に申告しないでも済むという高校生ながらの考えでした(笑)

私がギター、K.Y氏がボーカル、J.I嬢がキーボード、他にS高校のK.S氏がドラム、そして随分年上(23〜24だったかな?)で、S.K氏の
知り合いのT氏にギターをお願いしました。
一バンドだけでホールをいっぱいにする自信がなかったので、タイバンを立てることにして、ある日T氏が「愛奴というバンドに頼むことに
した」ということでした。
そうです!若き日の浜田省吾が在籍して、当時CBSソニーからメジャーデビューする直前の、あの伝説のバンド、愛奴だったのです。

私達のバンドもコンサートに向けてスゴク練習して少しは自信があったのですが、リハでの愛奴の演奏を聴いて
『こりゃあ、まったくレベルが違う!』と完全に自信喪失ですよ(^^;
自分たちの作った曲をジャズ風、ロック風(オールマン・ブラザーズっぽい感じが多かった)にアレンジしてやってみせるというやり方に
コピーすることしか考えていなかった自分にとってはものすごい衝撃でした。
やっぱり、オリジナルをやるべきだ!と

 

1974 リトル・ウィング  ジミヘンドリックス


 

 


広島K大学にサッカーの推薦入学で入った私はバンドをするわけでもなく、サッカーに明け暮れていました。
そして11月初めての大学祭を体験するのですが、学食であったダンスパーティに出ていた音楽サークルのミュージックファミリー
(ロック部とフォーク部が合体していた)のバンドに目が奪われました。
ギターの人がとても上手くて『あぁ〜またバンドやりたいなぁ〜』と思うようになりました。

その頃に毎日、ひとりで弾いていた曲がこの曲です。
間奏の最初の音のチョーキング一発でこの曲が語れるほどの説得力!
そして、バンドをやりたいという欲求がサッカーボールを蹴ることよりも大きくなりだしたある初冬の日、私はサッカー部を辞めることと
なります。
どうして辞めたかは色々な理由もあったし、ここでは割愛させてもらいますが、一番の理由はバンドをやりたいということだったんです。

 

1975 あの日に帰りたい  荒井由実


 


大学2年になってミュージックファミリーに入った私は、すぐにハードロックの曲をやるバンドを結成します。
レパートリーはオールマン・ブラザーズバンド、デレク&ドミノス、レッドツエッペリン、ハンブル・パイなどハードな曲を好んでやって
いました。
そんな時、当時付き合っていた彼女に「聴いてみない?」と渡されたレコードがこれです。
極端な言い方をすれば音楽観がガラリと音を立てて変わった思いがしました。

それまではハードなロックにしか目がいってなかった私なのに、この曲を聴いた途端に『今まで聴いたことのない新鮮なサウンド!』
これ以降バックバンドの鈴木茂、細野春臣などの関係している音楽ばかりを好んで聴くようになります。
その先に、スタッフ、クルセダースなどのフュージョン系の音楽がありました。

1976 [ぺきんだっく]




 


ロックをコピーして演奏することに限界を感じていた大学3年の夏(この年の4月から八丁堀三越の屋上ビアガーデンで毎日毎日同じを
演奏してウンザリしていた頃)に新しいバンドに誘われました。
「すべてオリジナルをやるバンドを目指そう」という崇高な理念を掲げてスタートしました。

メンバーはギターが私、現在薬研掘でジャカラという店をやっているN.S氏がベース、現在大手電気店勤務のA.K氏がドラム、
現在公務員をやっているK.S氏がパーカッション、そして現在薬研堀でJ's barという店をやっているH,K氏がボーカル(途中から、
ボーカルS.M氏に代わります)
この時に生涯初めて作曲した曲「水色の浜辺」を作ります。
作詞はH.K氏。それから「ウキウキ・ベイビー・ブギ」「大通りを横切って」「旅立つ君に」「移り行く時間の中で」「オールディズ・バカンス」
「赤いキノコ」「トゥナイト」「夢の通い路」と立て続けに作曲をしていくことになります。
これらの曲は解散記念自主制作LPレコード「コールド・サマー」に収録されています。

また当時はコンテストが多く開催された時期で、ぺきんだっくは2度チャレンジしました。
一度は「フレッシュ・サウンド・コンテスト」
これは惜しくも全国大会出場は逃がしましたが、中国大会で3位になりました。
もう一つのコンテストは「ハッピー・フォーク・フェスティバル」
これは見事、地区大会を優勝して東京中野サンプラザであった本選大会に進むことが出来ました。

ゲストは甲斐バンド、チューリップ、さだまさし、イルカなどでした。
彼らと同じステージに立てたということだけでもいい想い出です(^O^)
そして順位はつかない位の惨敗だったんですけど(^^;
3位になったグループの中に後に「東京ララバイ」でブレイクした中原理恵がいました!

また、ぺきんだっくは地元で開催されるコンサートにも積極的に出て、正味一年半の活動期間で数え切れないほどのライブを経験
しました。
デビューして間もない浜田省吾の前座バンドを3度もやらせてもらえたのが、とてもいい想い出になっています。

 

1978 ブルー・ラグーン  高中正義




 


この頃は、いわゆるフュージョンミュージックが全盛のころで、多くのフュージョン系ギタリストが注目を浴びることになります。
ラリー・カルトン、リー・リトナー、日本では渡辺香津美など・・・
私もレコードをいっぱい集めてコピーしまくりました。
歌物バンドばかりやってきた私にとって、人間の声ではない楽器だけで、すべてを表現する
こういう音楽に、ある種の憧れみたいなものを感じていたように思います。

中でも高中正義は一番たくさんコピーをしたギタリストでした。

 

[3丁目バンド]

 

 

 


大学を出て、家業のための修行に東京に行ったりして広島に帰り、家業を一生懸命やっていた頃です。
仕事も慣れてきて、またまた『バンドをやりたいなぁ』って思っていた頃、高校のときの友達のY氏から、
「八丁堀に働く青少年が集まる所があって、音楽サークルもあるから行ってみたら?」というので早速行って入りました。
その時に作ったのがこのバンドです。

女性がボーカルだったので、コピーしていたのは、杏里、尾崎亜美、松原ミキ、マリーンなどの曲が多かったです。
ポップミュージックでしたけど、サウンドは当時海外一流ミュージシャンがバックをやっていたようなものが多く洗練されていて、
コピーしていて楽しかったし、勉強にもなりました。

そうそう!コンテストにもチャレンジしたんですよ。
「ひとりの部屋」という曲を私が作詞作曲して、テープ審査に応募しました・・・
見事・・・落選でした(笑)

 

1983〜現在 [Zoo company]



 


3丁目バンドの解散が決まり、『どうしようかな?』と思っていたときに、
3丁目バンドのドラムであったS.N氏が「大学時代の友達とバンドをやろうと思うんだけど、ギター弾かない?」
と言ってきました。
「で、どんな音楽したいの?」って聞くと
「フュージョンミュージック」って言うじゃありませんか!
そういうバンドをやってみたかったこともあって、即座に
「やるやる!」と二つ返事で答えていました。

最初の一年くらいは練習に明け暮れて人前でやらなかったけど、徐々にライブをやるようになって、
1986〜1992くらいは大変活発にライブ活動をしました。
大分県や福山、尾道に演奏旅行に行ったり、地元のライブハウスにもレギュラーのように出たり。
しかし、メンバーがみんな結婚して子供が出来たりして家庭人になるにしたがって活動が途絶えがちになってきました。

レパートリーは長いことやっているので、ここで書けないくらい、たくさんありますが、T-スクエア、マルタ、松岡直也グループなどの曲が
多かったですね。
あとは、チック・コリア、ウェザー・リポート、渡辺貞夫などもやりましたね。

年に一回、忘年会のときにだけしか顔を合わせないという年が続いた97年、ビックプロジェクトが私の元に飛び込んで来ました。

地元商店街(横川商店街)がテーマソングを作ってCDにして関係者に配るというものでした。
6っつの通りが集まって横川商店街なので各通りに一曲ずつ、
「七夕の夜」「RIVERSIDE AVENEU」「コスモスの街」「素敵なRainyday」「Stay With Me」「サンバ"98」の6曲を
そして商店街全体のテーマソング「YOKOGAWA MY CITY」 全、7曲を作曲し、ほとんどの曲を作詞しました。

予算の関係でレコーディングスタジオを30時間しか借りれなくて、7曲をレコーディングするには少な過ぎたとは思いましたが、
今となっては、大学卒業の時に作ったLPレコードと並んで、自分が作った歌がレコード、CDと形となって残っていると思うと
大変嬉しく思います。

メンバーみんな忙しい人ばかりで、不定期にしかライブできないバンドですが、私にとってはかけがえのない友人たちで、
老人になって、「もういいやろ」って誰かが言うまで続けたいバンドです(^^)

 

1993 ポール・マッカトニー来日


 

 


これが実質的にもう一度ビートルズを深く聴き始めるきっかけになりました。
93年のある日、東京にいる高校の時の一番の友人であるK.Y氏より突然電話がかかってきて
「ポールが来日する!お前のチケットも取ったから東京まで来い!」と言ってきました。
ちょうどコンサート当日は仕事の都合がつかなくて、結局断ったんだけど、どうしても見たくなりました。

そんな時にコンサートの模様を同時中継で、見真講堂で、今で言うパブリック・ビューイングがあるという情報を得て、
すぐにチケットを買ってかけつけました。

大きなスクリーンに映ったポールは躍動感があって、とても素敵な大人になっていました。
ビートルズ時代の曲もたくさんやって、夢中になって見ました。
それと同時に、ビートルズに対する「想い」がどんどん大きくなっていくのが実感できた瞬間でした。

その頃はフュージョンバンド、Zoo Companyで積極的にライブ活動していた頃でもあり、フュージョンミュージックばかり聴いてた時期
でした。
サウンドも曲に対するアプローチもまったくビートルズとは違うフュージョンミュージックをやりながら、
ビートルズに対する「想い」が大きくなる一方でした。

当時はよくカラオケを唄っていた頃で、カラオケでビートルズを唄っても、全然楽しくないんですよね・・・
ある日、友人に連れて行ってもらったスナックで、そこの常連さんが「僕、ビートルズ唄えます!」と言うので、
「抱きしめたい」「シー・ラブズ・ユー」など5〜6曲ジョンとポールに分けて唄ったんです。
メチャ楽しくて・・・
『そうか!俺はビートルズのコーラスがしたいんだ!』
と思いました。
それでも、ビートルズバンドをやりたいとはその時は思わなかったなぁ・・・

 

1999〜現在  〔FABRICK〕



 


97年のCDレコーディング以来、不定期にポツポツとライブをやっていたZoo Companyですが、
メンバーみんなの気持ちの盛り上がりには乏しい状態が続いていました。
仕事や子育てに忙しい時期で仕方のないことだったと思います。
そして99年2月に前出のNS氏の店でライブをしようという話になったのですが、ライブの日が近づいてもチケットも売れてないし
メンバーの意識が低い状態でした。
実際、当日のお客さんは15人もいなかったと思います。
メンバーみんなの心の中に、『解散』という気持ちがあるのじゃないかと思っていました。
私自身も『このバンドは終わりかもしれない』と思っていました。
後から聞くとそんな気持ちはなかったそうです(^^;

その時私は43歳。『このままバンド活動自体をやめて音楽から離れてもいいかな』という気持と
『それじゃぁ、寂しすぎないか?』と言う気持ちとで揺れ動きました。
結局、後者のほうが優って・・・
『じゃあ、ホントはどういうバンドがやりたいのか?』
答えはすごく簡単でした。

「ビートルズ!」

これしかない!と思いました。
そこでとにかくビートルズをやっているバンドを探して入れてもらおうと考えました。

まず、ZooCompany結成当時(85年頃)ちょっとだけパーカッションで加入していたS.W氏(故人)がビートルズ好きということを思い出し
早速連絡を取ったら、「僕はもうやらないけど、西観音にクロスロードという店があって、そこにビートルズバンドが出ているから、行って
みたら?」
とのことでした。
そしてクロスロードに行ってマスターに思いを伝えたら、
「ちょうどギターを探しているビートルズバンドがあるよ」ということですぐに連絡をとってもらい後日会うことになりました。

そして、クロスロードで待っていたのがリーダーのstuとマーサでした。
少しだけ話をして、「とりあえず5曲くらい覚えてきてください、一緒に合わせてみましょう」とstuが言いました。
「シー・ラブズ・ユー」「キャント・バイ・ミー・ラブ」「抱きしめたい」「ノー・ホエアマン」あたりだったと思います。
実質的にはオーディションだったと思った私は一生懸命一週間練習して臨みました。

一回目の時は仕事でHIROが来ていなくて、練習らしいことは出来なかったように記憶しています。
そして一週間後、二回目の練習の時、私の心の中では
『メンバーみんなが揃ったとき大したレベルじゃなかったら、入るのをやめよう』と思っていました。

そして練習となってstuとHIROが「抱きしめたい」を唄った時、今でも覚えていますが、電流が体中を駆け巡ったんです!
今ほど演奏レベルもボーカル力もたいしたことなかったのに(stu,HIROごめんね^^;)
すごいヤツ等がいたもんだ!
と思いました。
そして3部コーラスの「ノーホエアマン」のとき、私がジョージのパートでハモッた時にも全身に鳥肌が立ちました。
『俺が入ったらこのバンドはすごいバンドになるかもしれない』(ちょっと自信過剰ですね^^;)とホンキで思いました。

それから一年半(2000年10月まで)新しくリンゴ役のふくちゃんが入るまでまでの期間はいわゆる練習期間であって、
本当の意味でのFABRICKのスタートはふくちゃんが入ってからの、2000年10月からだと思っています。
本当に素晴らしいメンバーに巡り合って、神に感謝する気持ちでいっぱいです。

このメンバーでやっていなかったらおそらくビートルズバンドをやっていなかったかもしれません。
この店を開こうと決心できたのもFABRICKがあるからこそです。

 

 

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